遠藤章博士を偲んで

遠藤章博士の郷土を思う熱い心と信念、
そしてその世界的偉業を末永く後世に伝えるために。

遠藤章博士 追悼

遠藤章博士顕彰会 会長 佐々田 亨三

「奇跡の薬」スタチンを発見された遠藤章博士は令和6年6月5日ご逝去されました。博士の訃報に接し、遠藤章博士顕彰会を代表して衷心より哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の皆様には心からお悔やみ申し上げます。
遠藤博士は1933年(昭和8)11月14日、秋田県由利本荘市東由利法内に誕生し、地元の小、中学校、四年制の本荘高校定時制課程下郷分校に学び、2年後に秋田市立高校(現秋田県立秋田中央高校)に編入し、東北大学農学部に入学、卒業と同時に三共株式会社(現第一三共)に入社、スクラーゼSの開発の功績で、アメリカに2年間の留学後は、高コルステロール血症治療薬の開発研究に専念、粘り強い忍耐強さと不屈の努力を重ねられて6千株の菌類を調べ、1973年(昭和48)青カビからコルステロール合成阻害剤スタチン1号となる「コンパクチン」を発見されました。

博士は「秋田の田舎、東由利で育ったから自然の中に血中コレステロールを抑える薬があるとの信念でやってこられた」と語り、郷里への愛着・思いを常に述べておられました。その後の新薬に向けての余りにも多くの苦難は想像を絶するものだったろうと思われます。動物を使った非臨床試験を始め、数々の安全性への試験、分析、検証等、そして、承認申請と審査、それからの発売です。それぞれの担当分野・専門家との協働、一方、「科学的常識等」を巡っての格闘・議論の繰り返し等、再三中止に追い込まれる中にあっても、博士は信念と挑戦、不屈の努力であらゆる分野の研究を究められる研究姿勢を貫いておられたのです。

そうした中、アメリカが1987年(昭和62)、博士のコンパクチンに続くスタチン2号のロバスタチンを、商業化第1号として発売しました。日本でも、1989年(平成元)日本初のメバロチンとして発売されます。後年、ノーベル生理学医学賞受賞されたマイケル・ブラウン博士は「遠藤がスタチンの歴史を開いた」と強調しておられます(「コルステロール代謝に関する諸発見」で1985年ゴールドスタインとともに受賞)。以後研究が広がり、これまでに計7種のスタチンが商業化され、現在では100カ国以上の国々の3000万人を超す患者の治療に用いられています。スタチンは「動脈硬化とコレステロールのペニシリン」「ペニシリンと並ぶ奇跡の薬」と呼ばれ、さらに冠動脈疾患と脳卒中に加え、スタチンがアルツハイマー病等を予防することも示唆され、スタチンは「万能薬」とも言われております。

遠藤章博士は後に、東京農工大学で教鞭を執られ、同大学名誉教授、そして(株)バイオファーム研究所代表取締役所長として活躍されるなど、創薬の研究開発に生涯を尽くされました。この希有な世界的偉業により、遠藤章博士は日本国際賞、ラスカー賞、ガードナー国際賞等を受賞し、「米国発明家殿堂入り」、そして、文化功労者、旭日・瑞宝重光章に輝いておられます。

遠藤章博士は、幼少の頃から親しんだ家畜、カビとキノコ、農作業等自然との触れ合いを通し、「自然を大事に、自然から学ぶ」を、研究開発の原点と話されたことや、導いてくれた郷里の家族や恩師への感謝の言葉、そしてハーバード大学のブロック博士には、博士が亡くなる90年代半ばまでの30余年間、折に触れて励ましと指導を受けられたこと、「博士との出会いがなければ、私がコレステロールにのめり込むことは恐らくなかったであろう」との述懐は胸に迫りくるものがあります。

私達顕彰会は博士の自然を大事にする「自然を学ぶ」不屈の粘り強い努力で成し遂げた偉業・業績を、地域・県民を始め多くの人々に語り、伝える使命とでも言うべき責任があります。同郷・地域として、同職・研究者としてのよしみからだけではなく、博士の人命を救う研究開発の動機と臨床試験等への情熱、そして数々の難題・課題克服のための粘り強い努力と果敢なる挑戦には、必ずや万人の心を傾注させることを確信します。

博士は未来のある学徒中・高校生に、いつも努力について語ってくれました。「若人よ、世界を広く見渡し、大きな目標・夢に向かって努力を続けよ、努力は必ず報われる。」遠藤章博士の遺訓として、末永く語り伝えていく所存です。

どうぞ安らかにお休みください。

さきがけ 掲載記事より